福島県のイレギュラーなテレビ事情
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明日からあさってまで千葉🥜です。
横浜市営地下鉄ブルーラインに正月🎍ヘッドマークが掲示されています。そういえば私が乗ったときには見なかったような…(ぉぃ)
東武鉄道30000系の車内表示器のキーホルダーが発売されます。現在では東上線の主力である30000系が東急田園都市線で活躍していた時代懐かしいです。(ぉぃ)
さて、さっき地震によって遅れ放送になったタモリと笑福亭鶴瓶の正月特番が放送されていて、懐かしのテレビ欄が多数出てきました。新春かくし芸とか懐かしい番組も取り上げられました。明日のこちらも遅れになった「芸能人格付けチェック(Gackt様)」も楽しみですが、「千鳥の鬼レンチャン(ほいけんた)」も見たいです。(両方ともTVerで配信されますが)
そして、昨年末には福島に行って、会津若松の鶴ヶ城や郡山のイルミネーション&ポケモン&鉄道模型ジオラマが良かったです。
その福島県には福島テレビ(フジテレビ・カンテレ系列)・福島中央テレビ(日本テレビ・よみうりテレビ系列)・KFB福島放送(テレビ朝日・ABCテレビ系列)・テレビユー福島(TBS・MBS毎日放送系列)の4つの民放テレビがあります。
しかし、福島県のテレビ事情は福テレとTUFが県庁所在都市の福島市に本社がある一方で中テレとKFBは県内最大の人口を誇り経済や交通の中心地にもなっている郡山市に本社があるというた都道府県にはない特異さがあり、その上県内第1局の福テレは他都道府県より遅れて放送を開始したテレビ局としても有名ですが、これには福島県特有の事情があります。
そこで今回は、福島特有の事情が生んだ福島のイレギュラーなテレビ事情を書きます。
そもそも福島県は山側から順に鶴ヶ城など観光名所が多い会津若松市やラーメンで有名な喜多方市を中心とした会津、県内最大の都市でありイルミネーション・プラネタリウム・桜・ポケモンラッキーの公園なども人気の郡山市や県庁所在都市であり桃の花でも有名な福島市を中心とした中通り、炭鉱が栄えたことによって県最大の人口になったこともありハワイアンセンターと水族館で有名ないわき市や野馬追が有名な相馬市を中心とした浜通りの3エリアに大きく分かれていて、夏はどのエリアも暑くなりやすい一方で冬は会津だと豪雪地になる一方で中通りは雪が多いものの会津ほど豪雪にならず浜通りに関しては雪が少ないという気候の違いはもちろん文化面でも3エリアで大きく違います。
そもそも福島県はもともと会津と中通りと浜通りで別の県であり、それを統合して現在の福島県が誕生しましたが、県の中央とは言えどもやや北寄りの福島が県名と県庁所在地として採用されたのには異議も多く、幕末では現在の県内最大の都市だった一方で明治政府の原点となった倒幕(薩長)から恨みを買ってイメージが悪くなっていた会津若松や県のほぼ中心であり明治政府が開拓に力を入れていてそのことから企業が多く立地するようになった郡山は福島市が県庁所在地であることへの反発が強いといわれていて、郡山への県庁移転論も根強く続いています。
このように福島市と郡山市で対立構図ができていることに加え(近年は郡山一人勝ちになっている意見も出ていますが)、新聞に関しても毎日新聞と提携している福島民報と読売新聞と提携している福島民友新聞の間で対立関係であり、この2つの対立関係が民放テレビの開局を遅らせる原因になりました。
その福島県で一番最初に民放テレビを申請したのは、福島市に本社を持つ福島民報系のrfcラジオ福島で、1957(昭和32)年に新製を行い全国での民放テレビ開局ブームが起こった1959(昭和34)年にテレビ開局を予定していましたが、郡山系企業や福島民友の反発によって資本が集まらずrfcのテレビ開局は断念しました。
次に1960(昭和35)年には「株式会社福島テレビ(現在の福テレは「福島テレビ株式会社」なので無関係)」がテレビ免許を申請しましたが、開局できず免許失効になりました。
その民放VS民友さらには福島市VS郡山市といった対立構図が県内悲願の民放テレビ開局を妨げていたことには県や県内市町村も黙っておらず、とうとう県が動き出し、県が主体となる形で福テレが設立され、1963(昭和38)年にようやく開局し、事実上47都道府県最後の民放テレビ1局目開局になりました。
そのようないきさつから福テレはフジテレビの持ち株会社フジ・メディア・ホールディングスや福島民報なども出資しているものの開局当初から株の半分を福島県が保有する事実上県営のテレビ局になっています。開局当初は地方の民放テレビは1県1局原則だった上に前述のいきさつから県が株の半分を所有している経営形態だったため当時の在京キー局だった日テレ・TBS・フジ・NETテレビ(現テレ朝)からニュース含めて好きな番組を選択できるオープンネット形式になり、番組編成比率も当時の地方局でありながら4系列をほぼバランスよく編成していたそうです。1966(昭和41)年からはニュースのみ日テレ系になりましたが、ニュース以外は各局の番組を織り交ぜての放送形態を継続しました。
しかし福島県が主体になって福島市に福テレを開局したことには郡山経済界からの反発が強く、郡山経済界や福島民友や朝日新聞が福テレや同局の後ろ盾になっていた福島民報・rfcに対抗する形式で県民テレビ開局運動を始め、1968(昭和43)年のUHF電波解禁を機に複数社の免許の申請が行われ、その中の郡山商工会議所出身者が出願した局に郡山経済界と福島民友と朝日新聞が乗り入れる形式で中テレが1970(昭和45)年に開局しました。そのことから中テレは発起人の出身が郡山経済界であることに加え県民テレビ運動の中心地が郡山だったことから福島市拠点の福テレ・TUF・rfc・NHKに比べると放送内容など様々な面で郡山至上主義になっていることでも有名です。その県民テレビ運動に朝日新聞が関わっていたことはのちに開局するKFBの本社も郡山に設置される原因にもなっています。
2局になった当時は福テレが日テレとTBS・中テレがフジとNETでしたが、1971(昭和46)年には早くも福テレがTBSとフジ・中テレが日テレとNETにネットチェンジしています。
しかし福テレは開局のいきさつ上県が株の半分を持っている上にフジテレビの資本関係が強かったことからTBSとの関係が疎遠化しかけていて、中テレも福島民友との関係強化の結果日テレ中心にせざるを得なくなり全国テレビネットワーク完成を推進していた朝日新聞との関係は決して良いものといえなくなりました。その朝日新聞系テレビネットワーク整備の一環として1975(昭和50)年には関西のMBS(NET→TBS)とABC(TBS→テレ朝)の腸ねん転解消ネットチェンジが行われ(その準備として福岡のKBC九州朝日放送のNET(テレ朝)フルネット化や名古屋のメ〜テレ(日テレ・NETクロスからテレ朝フルネットへ)・中京テレビ(メ〜テレの編成から外れた番組ネットから日テレ中心へ)の変則クロスネット解消も行われました)、これによってABC制作の番組の一部が中テレに移行されず福テレに残ることになり、これによって朝日新聞とテレ朝が福島県に独自新局を開局させるようになりました。
そして福島県での第3・第4民放電波の割り当てのめどがたったので、1981(昭和56)年にKFBが郡山市に開局し、1983(昭和58)年にTUFが福島市に開局し、これによって福島県は民放4局になりました。
福島のテレビ事情には県内や在京マスコミをめぐる激しい争いがあったことを知ってほしいです。